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モデルベース開発 (MBD) を活用した水素モビリティシステム開発:開発プロセス、技術課題、および最適化戦略

Tags: モデルベース開発 (MBD), 水素モビリティシステム, システム開発, シミュレーション, 検証・妥当性確認 (V&V)

水素モビリティシステム開発におけるモデルベース開発 (MBD) の重要性

カーボンニュートラルの実現に向け、水素を燃料とするモビリティシステム、特に燃料電池自動車 (FCEV) の開発が加速しています。FCEVシステムは、燃料電池スタック、水素貯蔵システム、パワートレイン、バッテリー、熱マネジメントシステム、高圧水素供給系など、多様な物理ドメインに跨る複雑なコンポーネント群で構成されており、これらの相互作用を理解し、システム全体として性能、効率、耐久性、安全性を最大化することが極めて重要です。

従来の開発プロセスでは、実機試作と評価を繰り返す「Build and Test」のアプローチが中心でしたが、システムの複雑化に伴い、開発コストと期間が増大する傾向にあります。このような背景から、開発初期段階からモデルを活用してシステムの挙動を予測し、設計や制御を検証するモデルベース開発 (MBD) の導入が不可欠となっています。MBDは、要求分析から設計、実装、検証に至る開発ライフサイクル全体を通じて一貫してモデルを使用することで、開発効率の向上、手戻りの削減、品質の確保、そしてより高度なシステム最適化を可能にします。

水素モビリティシステム開発におけるMBDの適用プロセス

水素モビリティシステム開発におけるMBDは、以下の主要なフェーズを通じて適用されます。

  1. 要求定義とシステムアーキテクチャ設計:

    • 車両全体の性能、航続距離、積載量、コスト、安全基準などの高レベル要求を定義します。
    • システムズエンジニアリングの手法を用いて、これらの要求を燃料電池システム、水素貯蔵システム、パワートレインなどのサブシステムレベルに分解し、機能分配とインターフェース定義を行います。
    • この段階から、システム構成要素の静的・動的特性を記述したモデル(SysML等)を用いることで、早期にシステム構造の妥当性を評価できます。
  2. サブシステムおよびコンポーネントのモデル化:

    • 燃料電池スタック(電気化学反応、ガス・水・熱輸送)、水素貯蔵(熱力学、材料力学)、パワートレイン(モーター特性、ギア効率)、熱マネジメント(熱交換器、ポンプ、ファン特性)、高圧ガス系(流体特性、バルブ応答)など、各コンポーネントの物理モデルを構築します。
    • モデルは、物理ベースモデル、経験的モデル、あるいはそのハイブリッドなど、開発フェーズや目的に応じた精度と計算速度を持つものが選択されます。例えば、燃料電池スタックモデルでは、セル電圧応答を予測するための電気化学モデルと、内部のガス・水・熱分布を詳細に解析するためのCFD/熱流体モデルなどがあります。
  3. システム統合モデルの構築:

    • 構築された各サブシステムモデルを統合し、システム全体の動的挙動をシミュレーション可能な統合モデルを作成します。
    • 異なる物理ドメイン(電気、機械、熱、流体、化学)を扱うため、マルチフィジックスモデリング技術とツール連携が重要になります。標準化されたインターフェース記述(例: FMI/FMU - Functional Mock-up Interface/Unit)は、異種ツール間でモデルを交換・結合する上で有効です。
  4. シミュレーションと性能評価:

    • 構築したシステム統合モデルを用いて、様々な運転シナリオ(定常、過渡、低温起動、高負荷、燃料残量低下など)におけるシステム全体の性能(出力、効率、応答性)、各コンポーネントの負荷、熱収支などをシミュレーションで評価します。
    • これにより、実機試作前に設計の妥当性や潜在的な課題を特定し、設計改善や制御戦略の検討に役立てることができます。
  5. 制御システム開発:

    • システムモデル上で、燃料電池出力制御、空気・水素供給制御、水・熱マネジメント制御、エネルギーマネジメント制御など、各種制御アルゴリズムを設計・検証します(MiL - Model-in-the-Loopシミュレーション)。
    • 設計した制御アルゴリズムをソフトウェアコードに変換し、ソフトウェアモデルとしてシステムモデルと結合して検証します(SiL - Software-in-the-Loopシミュレーション)。
    • さらに、リアルタイムオペレーティングシステム上での実行を想定した制御ソフトウェアをハードウェアターゲット上で実行し、システムモデルと結合して検証するHiL (Hardware-in-the-Loop) シミュレーションは、制御システムの最終検証に不可欠です。
  6. 検証・妥当性確認 (V&V):

    • シミュレーション結果やベンチ試験、実車試験のデータを用いて、モデルの精度とシステムの要求適合性を確認します。
    • モデルのキャリブレーションには、実機データとの誤差を最小化するための最適化手法が用いられます。
    • MBDプロセス全体を通じて、要求が満たされていることを系統的に検証し、トレーサビリティを確保します。

水素モビリティシステム開発におけるMBDの技術的課題

水素モビリティシステムにMBDを適用する上で、いくつかの技術的な課題が存在します。

  1. モデルの高精度化と計算負荷:

    • 燃料電池内部の複雑な電気化学反応、ガス・熱・水輸送現象や、高圧水素システムの熱力学的挙動など、多岐にわたる物理現象を正確に記述するモデルは非常に複雑になり、計算負荷が増大します。
    • 特に、劣化や故障といった長期的な挙動や、低温起動時の氷生成のような非線形性の高い現象のモデル化は依然として課題です。
  2. マルチドメインモデルの統合とツール連携:

    • 電気、機械、熱、流体、化学といった異なる物理ドメインのモデルをシームレスに統合し、システム全体のシミュレーションを行うには、高度なマルチドメインモデリング技術と、様々な解析ツール間の連携が必要です。
    • 異なる解法(連続時間、離散時間、イベント駆動など)を持つモデルの統合も複雑さを増します。
  3. モデルの妥当性確認と実機データとの乖離:

    • 構築したモデルが実機システムの挙動を正確に再現しているかを確認するための妥当性確認プロセスは、モデルの信頼性を確保する上で極めて重要です。
    • しかし、実機システムの計測データは限られており、またノイズや外乱の影響を受けるため、モデルとの乖離の原因特定や、モデルパラメータの正確な推定が課題となります。
  4. リアルタイムシミュレーションとHiLの課題:

    • 制御システムの検証に不可欠なHiLシミュレーションでは、システムモデルを実時間で高速に計算する必要があります。高精度な物理モデルは計算負荷が高く、リアルタイム性を確保するためのモデル簡略化や並列計算技術が求められます。
    • 高圧ガス系のような応答が速いダイナミクスを持つコンポーネントを含むシステムのリアルタイムシミュレーションは特に困難です。
  5. 劣化・故障挙動のモデル化:

    • 燃料電池の膜劣化、触媒劣化、GDL疎水性低下など、システムコンポーネントの劣化現象は複雑な物理化学プロセスを含み、そのモデル化は非常に困難です。
    • 予測保守や異常診断に不可欠な故障モデルの構築は、故障データの収集・分析に基づいた統計的手法や、物理的な劣化メカニズムの理解に基づいたアプローチが求められます。

課題克服に向けた技術的アプローチと最適化戦略

これらの課題に対し、以下のような技術的アプローチと最適化戦略が適用されています。

  1. モデルの高精度化と計算効率の両立:

    • 部分空間法(Proper Orthogonal Decomposition: POD)などのモデル次数削減 (Model Order Reduction: MOR) 技術を用いて、高精度な詳細モデルから計算負荷の低い低次元モデルを生成し、システムレベルシミュレーションに活用します。
    • AI/ML技術(例: ニューラルネットワーク、ガウス過程回帰)を用いて、複雑な物理モデルの入出力関係を学習し、高速な代理モデル(Surrogate Model)を構築するアプローチも有効です。
    • 高性能計算 (HPC) 環境や、GPUを活用した並列計算により、大規模モデルのシミュレーション時間を短縮します。
  2. 統合プラットフォームと標準規格の活用:

    • マルチドメインシミュレーションに対応した統合開発プラットフォームの導入により、異なるツールで作成されたモデルの一元管理と連携を容易にします。
    • FMI/FMUのような標準規格を積極的に活用し、モデルの移植性・再利用性を高めます。
  3. データ駆動型アプローチとの融合:

    • センサーデータ、ベンチ試験データ、実車データなどの大量のデータを収集・分析し、モデルパラメータの同定、モデル精度の検証、劣化・故障モデルの構築に活用します。
    • データ同化技術を用いて、シミュレーションモデルの状態をリアルタイムデータで補正し、予測精度を向上させます。
    • デジタルツイン環境下では、リアルタイムデータを活用してシステムの現在状態をモデル上で再現し、将来の挙動予測や最適制御に役立てます。
  4. 自動化されたV&Vプロセスの構築:

    • テストケースの自動生成、シミュレーション結果の自動評価、要件とのトレーサビリティ管理など、V&Vプロセス全体の自動化を推進します。
    • モデルカバレッジやテストカバレッジといった指標を用いて、検証の網羅性を定量的に評価します。
  5. システムレベル最適化:

    • MBD環境下で、システムパラメータ(コンポーネントサイズ、熱交換器容量など)や制御パラメータ(ゲイン、マップ値)の最適化を自動化します。
    • 遺伝的アルゴリズムや勾配ベース最適化手法を用いて、性能、効率、コスト、耐久性などの複数の目的関数を同時に考慮した多目的最適化を行います。
    • システム設計の初期段階から、様々なアーキテクチャ候補をモデル上で迅速に評価し、最適なシステム構成を選択するトレードオフ解析を支援します。

結論

モデルベース開発 (MBD) は、水素モビリティシステムという複雑かつ革新的な技術の開発において、その効率性、品質、そして高度なシステム最適化を実現するための強力な基盤となります。燃料電池、水素貯蔵、パワートレイン、インフラ連携といった多様な要素を含むシステムの開発においては、高精度なマルチドメインモデル構築、計算効率の向上、データ駆動型アプローチとの融合、そして検証プロセスの自動化といった技術課題が存在します。しかし、モデル次数削減技術、AI/ML活用、標準化、統合プラットフォーム、そして自動化されたV&Vプロセスといった技術的アプローチにより、これらの課題は克服されつつあります。

今後、MBD環境下での開発プロセスはさらに進化し、デジタルツインとの連携、サイバーセキュリティを考慮したモデル化、そしてサプライチェーン全体を見据えたエネルギーフロー最適化など、その適用範囲を拡大していくと考えられます。水素モビリティシステムの成功には、MBDを中核とした高度なシステム開発技術の確立が不可欠であり、継続的な技術革新と知見の深化が求められます。