水素交通の可能性

高度なセンシングとデータ解析が拓く燃料電池スタックのリアルタイム状態管理:電流・温度分布計測と制御戦略

Tags: 燃料電池, PEMFC, 状態監視, 診断技術, 制御技術, センシング, リアルタイム, 電流分布, 温度分布

はじめに

燃料電池自動車(FCEV)の中核であるPEMFC(固体高分子形燃料電池)スタックの性能、耐久性、信頼性を最大限に引き出すためには、スタック全体の平均的な状態だけでなく、スタック内部、さらには各セル内部の微細な状態をリアルタイムかつ高精度に把握し、適切に制御することが極めて重要です。従来のセル電圧モニタリング技術はスタックの状態把握に不可欠ですが、セル内部の不均一性、例えば電流密度分布や温度分布の偏りまでは捉えきれません。これらの不均一性は、燃料・酸化剤ガスの供給偏り、水の分布異常、温度ムラ、あるいは局所的な劣化によって引き起こされ、セル性能の低下、耐久性の劣化、さらにはホットスポット形成による不可逆的な損傷を招く可能性があります。

本稿では、燃料電池スタック内部の状態、特に電流分布と温度分布をリアルタイムに計測するための高度なセンシング技術に焦点を当て、計測データの解析に基づく診断技術、そしてそれらを活用した先進的な制御戦略について、最新の研究開発動向を交えながら技術的な考察を深めていきます。

燃料電池スタック内部の状態量と重要性

燃料電池スタックは、多数の単セルを積層した構造をとります。各単セル内では、アノードにおける水素酸化反応、カソードにおける酸素還元反応が進行し、電流が発生すると同時に熱も発生します。これらの反応は、触媒層、電解質膜、ガス拡散層(GDL)、双極板(BPP)といった構成要素の特性や、供給されるガス流量、湿度、温度、圧力、さらには生成される水の挙動によって強く影響されます。

特に、セル内部における電流密度や温度の分布は、以下のような重要な情報を含んでいます。

これらの状態量をリアルタイムに計測できれば、スタックの健康状態を詳細に診断し、発生しうる問題を事前に予測・回避するための高度な制御や、劣化の進行抑制に向けた戦略的な運転が可能になります。

電流分布計測技術

燃料電池スタックにおける電流分布の計測は、双極板の設計やガスの流路設計の妥当性を評価するため、あるいは運転中の異常を検知するために重要な技術です。主に以下の手法が研究・開発されています。

1. 分割双極板法 (Segmented BPP Method)

これは最も古典的かつ信頼性の高い手法の一つです。特定のセルにおいて、双極板を複数のセグメントに分割し、各セグメントから独立して電流を取り出し、その電流値を計測します。

2. 磁気センシング法

燃料電池セルで発生する電流は、その周囲に磁場を生成します。この磁場を非接触で計測することで、電流分布を推定する手法です。

3. 光学的計測法

一部の光学的特性が電流密度や温度によって変化することを利用する手法です。例えば、分光法やサーモグラフィなどが考えられますが、スタック内部への光学的アクセスは非常に限定的です。透過型双極板や透明窓を設けるといった特殊なスタック構造が必要になる場合が多く、汎用的なFCEVスタックへの適用は困難です。

温度分布計測技術

スタック内部の温度分布計測は、熱マネジメントシステムの最適化やホットスポットの早期発見に不可欠です。

1. 接触式温度センサー

最も一般的で信頼性の高い手法です。熱電対やサーミスタなどを双極板やガスケットに埋め込んで直接温度を計測します。

2. 非接触式温度計測

赤外線カメラやファイバーオプティクスを利用する手法です。スタック表面の温度分布は赤外線カメラで容易に計測できますが、スタック内部、特にセル中央部の温度を非接触で計測するには技術的なブレークスルーが必要です。

計測データに基づく診断・制御戦略

リアルタイムで取得した電流・温度分布データは、スタックの稼働状態を詳細に把握し、異常を早期に検知するために活用されます。

1. 状態監視と異常検知

電流分布や温度分布の空間的・時間的な変動パターンを解析することで、以下のような異常を検知できます。

これらのデータは、従来のセル電圧、スタック電圧、スタック電流、入口/出口ガス流量・温度・圧力といったマクロなデータと組み合わせることで、診断の精度と信頼性を大幅に向上させます。

2. 劣化診断と寿命予測

長期間のリアルタイム計測データを蓄積・解析することで、劣化の進行状況をより詳細に把握し、将来の性能低下や寿命を予測することが可能になります。特定の運転条件下で発生しやすい局所的な劣化モード(例:炭素担体の腐食、膜のピンホール形成)を、電流・温度分布の微細な変化から捉えることができます。

3. 適応制御と最適運転

リアルタイムの状態量データに基づき、以下のようなシステムの運転パラメータを動的に調整する適応制御戦略が考えられます。

これらの高度な制御は、スタックの性能を最大限に引き出すだけでなく、劣化速度を抑制し、結果としてスタックの耐久性向上に大きく貢献します。

4. AI/MLの活用

リアルタイムで生成される膨大な電流・温度分布データを解析し、複雑なパターンや相関関係を抽出するために、AI/ML技術の活用が期待されています。

AI/MLモデルの構築には、高品質な実測データと、物理モデルに基づくシミュレーションデータの組み合わせが有効です。

実装上の課題と展望

FCEVにリアルタイム電流・温度分布計測システムを実装するには、以下の技術的な課題があります。

今後の展望としては、以下の点が挙げられます。

これらの技術開発が進展することで、燃料電池スタックのリアルタイム状態管理は、FCEVの性能、耐久性、信頼性を飛躍的に向上させるためのコア技術となるでしょう。

まとめ

燃料電池スタック内部の電流分布や温度分布といった詳細な状態量をリアルタイムに計測し、そのデータに基づいて診断・制御を行う技術は、FCEVの技術的課題を克服し、商用化をさらに加速させる上で非常に重要な役割を果たします。分割双極板法や磁気センシングによる電流分布計測、接触式センサーによる温度計測に加え、非接触手法や新たなセンシング原理、そしてAI/MLを活用した高度なデータ解析と制御戦略の研究開発が活発に進められています。実装上の課題は依然として大きいものの、これらの技術はスタックの性能最適化、劣化抑制、信頼性向上に直接的に貢献するものであり、今後の研究開発の主要な方向性の一つと言えます。本稿が、読者の皆様の研究開発や技術課題解決の一助となれば幸いです。